震災の記憶・16年目

1月17日。
阪神・淡路大震災の発生したあの日を今年も迎えようとしています。

私自身、被災者です。
震災から10年目に当時の記憶をまとめ、
以来こちらで毎年書かせていただいています。
今年も若干修正したものを書かせていただきます。

マンネリと言われようと構いません。
私はあの日を忘れない。
あの日の記憶を伝えたいから。

    *         *         *
その日、1995(平成7)年1月17日の朝。
何事もなければ普通に始まるはずでした。
自室の布団の中で夢うつつの中にいた午前5時46分。
突然、それはやってきました。
「ゴーッ」という低い音。
すぐに突きあげてくるような激しい縦揺れ…。
家全体が激しく揺すられ、更に横揺れが加わり、最後は一回転してようやくおさまりましたが、この間、私は目を覚ましたものの、布団のなかで動くこともできませんでした。
揺れがおさまったのを見て布団から這い出し、真っ暗な中を部屋から出ようとしましたが、ドアが開かない。
後でわかったのですが、ドアの向かいに置いていた物入れから飛び出した引き出しがドアを押す形になって邪魔していたのです。
とにかくドアを蹴り破って、外に出て一階に下り、居間に行ってみると、そこは…
暗がりでしたが、それでもよくわかりました。
テレビは部屋の反対へ移動し、タンスは倒れ、あらゆるものが散乱していました。
一足早く起きていたいつも、時には腹が立つくらい冷静な私の母が、途方にくれていたくらいです。
とりあえず、父と一緒に倒れていたタンスを起こし、
寝間着の上からズボンとセーター、ジャケットを着こんで、たてつけが歪んだ玄関から外に出てみますと
向かいの家が無いのです。
地震で揺すぶられて全壊し、ガレキの山となっていたのですね。
家人の声が聴こえたので、起きだしてきた近所の人たちと協力して
(警察や消防に連絡しようにも電話が停電していて使えない)
ガレキを掘り起こし、なんとか助け出しました。
たいしたケガもなく本当に奇跡でした。

やがて夜が明けてくると、状況がはっきりしてきました。
近隣の家をはじめとする建物はことごとく被害を受け
無事だったのは、前の年に改築した1軒だけ。
近所だけで7人が亡くなりました。
中には、地震の直後は生きていたのに、助け出された時には、こときれていたかたもいて、
悔しさを抑えることができませんでした。

17日から3日間は避難所で過ごしました。
新聞を見てその被害の深刻さに驚き、遅れてきた救援物資に長い行列をつくって。
余震が続く中、避難所に指定されている中学校の教室の床にダンボールを敷き詰めて座り、
夜は配布された毛布をかぶり、体を寄せ合って眠りました。
外では一晩中緊急車両のサイレンが鳴り響いていました。

避難所を出てからも大変でした。
震災直後に傾いていた近所の家が自らの重みに耐え切れずに自壊。
中には近隣の家も巻き込んで将棋倒しになった例もありました。
電気は比較的早く復旧したのですが、家の状況を確認しないで通電したので、火災が続発。
水道とガスは復旧が遅れて、1ヶ月以上全く使えず。
ポリタンクを持って、給水車に行列をつくり、カセット式のガスコンロにもお世話になりました。
冬でしたから汗はさほどでもなかったのですが、お風呂に入れないのには閉口しましたね。
仕事帰りに、勤務先近くの銭湯へ行ったり、電車で隣市の銭湯まで出かけたりしてしのぎました。
結局一息つけたのは、ガスが復旧した3月初めでした。

被災した時、日々のことに追われつつ、経験した2つのこと。

・人のやさしさ
家の片付けや炊き出しに駆けつけてくださったボランティアのかた。
励まされたり、お手伝いしていただき、人のやさしさを実感できる出来事でした。
被災地では交通事故は一件もありませんでした。
まともに動けるクルマが少なかったことや、主要道路に交通規制がかかったこともあったのでしょうが、皆がお互い様という気持ちがあったからだと思います。

・人の醜さ
震災直後、被災地では火事場泥棒が横行しました。
住人が避難している壊れた留守宅に入り込んで、使える家財道具や電化製品を盗んでゆく輩がいたのです。
うちはドアが開けにくかったので無事でしたが、傾いた家には
使える電化製品を根こそぎ持っていかれたところもあったのです。
皆が大変な時に自分のことしか考えられない人間がいることに
怒りを通り越して情けなくなりました。
新潟の地震も、スマトラ島の津波の時も似たようなことがあったそうで、つくづく人間とは困ったものです。

6,400人余の尊い人命が失われた、阪神・淡路大震災。
被災した街も今ではすっかり復旧し、名残を探すのも難しくなりました。

しかし。
私の中では今でも震災は終わっていません。
あの日以来、ちょっとした揺れでも目が覚めてしまいます。
私にとっても震災から10年は本当に大変でした。
震災直後に父は脳梗塞を患い、右手が不自由になりました。
今でも通院とリハビリが欠かせません。
被災した家は結局建て直しになり、その間は、仮住まいも経験しました。
仕事の上でも挫折を味わい、転職を余儀なくされ、人間不信になりました。
回復するのに5年かかりました。

あの地震の後も大きな災害は続いています。
テレビなどで画面を見ていますと、あの日の記憶が重なります。
あの日のことを私は決して忘れることはないでしょう。
いや、「忘れる」なんて被災者にとっては愚問と言えましょう。

あの日を忘れず、私たちは先を見て歩いていかなければなりません。
1月17日は、被災経験のある人が被災経験の無い方たちに向けてメッセージを発する義務を背負った、その義務の行使日だと考えています。
それがあの日に亡くなったかたたちへのなによりの供養だと思っています。

                        *      *      *
今年もあの日、あの時刻がやってきます。
私は今年も仕事場でその時間を迎えます。
あの経験を乗り越え、今普通に仕事をして普通に飯を食べ、生きていることに感謝。

ここまで読んでいただきまして、ありがとうございましたm(_ _)m

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